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陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 33

土曜日の朝、美奈は、病院へ行く用意をしていた。

「パパ、今日は、一人で行くわ。」

「大丈夫なのか?電車、まだ無理だろう?」

「ううん。でも、タクシーで行くわ。少しずつ、よくなっていると思うし。フラツキも、少なくなってきているから。」

「そうか。パパ付きじゃな。でも、具合が悪くなったら連絡するんだぞ。いいな。」

「わかったわ。」

美奈は、鏡で自分の姿を見た。

今日は天気もいいので半袖のベージュのシフォンのブラウススーツを着た。

『靴は、白のヒールにしようっと。』

白のバックを持って家を出た。

病院にはいつもより遅く着いた。

受診番号は、25番目。

1番最後だった。

美奈は、精神科の待合室を出て、売店で冷たいペットボトルのカフェオレを買って病院の裏庭のベンチへ向かった。

初夏を思わせるような日差しだった。

ベンチの周りには、木々が植えられていて、日陰になっている。

美奈は、ベンチに座ると持ってきたペーパーバックの本を開き、カフェオレを飲んだ。

かつての恋人、健のイギリス赴任がきっかけで買ったアニタ・ブルックナーの本だ。

『Hotel du Lac/秋のホテル』。

スイスの湖畔にあるホテルが舞台の小説。

時折、爽やかな風が通り抜けてくる。

1時間半ほど、経っただろうか、美奈は、本を閉じると、精神科へ戻っていった。

順番表を見ると、もうすでに23番目の人が受診していた。

美奈は、いつもの3番診察室近くの長いすに座って待った。

「村沢美奈さん、3番診療室にお入り下さい。」

美奈は、ゆっくりとドアを開け、一礼して、診察室の中に入って行った。

「こんにちは。」

森口は、美奈の方を向いた。

「こんにちは。どうぞ、おかけ下さい。」

美奈は、待ち合わせ場所のカフェに恋人を見つけて、彼の元へ行くような気分だった。

ベージュのシフォンのスカートが歩く度にゆらゆらと揺れる。

美奈は、真っ直ぐ森口の方に向かって歩いていった。

会社にいるときや家にいる時に感じる不安は、ここにはない。

それどころか、美奈の心の中は、安心感で満たされる。

席に着いた美奈は、森口の方を見た。

緑の濃さが増した葉をつけた木々を背に座っている森口を見つめた。

森口は笑顔で美奈を見つめ返した。

「いかがですか?今日は、顔色がいいですね。明るい感じもしますよ。」

「そうですか?」

「ええ。以前に比べてずいぶんとお元気になっていますよ。この調子でいくといいですね。」

「でも・・・。」

「でも?」

「でも、ここにいる私といつもの私は、違う人間なんです。まだ、電車に乗れません。この間、乗ってみたのですが、やはりダメでした。隣の駅で、パニック発作を起こした駅ですが、こそで、降りてしまいました。もう、苦しくて、不安でした。

会社にいても、集中できないし、気が付くと、私、ぼーっとしていたりして。ミスも多くなりましたし。私、まるで、変わっちゃったんです。この病気になる前の私と、まるで違ってしまったのです。全然、ダメな人間になってしまいました。」

美奈は、そこまで言うと涙が止められなかった。

慌てて、バックからハンカチを出した。

「すみません。」

「いいんですよ。お話を聞くのが私の仕事ですから。どうぞ、思っていることを、苦しんでいることを話してください。

僕が受け止めますから。」

「先生。私、もう、ダメなんです。」

「何が、ダメなんですか?」

「自分が自分でなくなっていくのが怖いんです。」

「あなたは、あなたです。ただ、今、体も心も少し疲れてしまっているだけです。だから、ゆっくり、休めてあげましょう。」

森口の言葉は、美奈の心を優しく包む。

「先生・・・。」

美奈は、涙を拭いた目で森口を見つめた。

「大丈夫ですよ。そう言えば、新しいお仕事が始まると言っていましたね。お忙しくなってきているのですか?また、お疲れが溜まると症状が悪化する怖れがあります。上司にお話になって、少し、お仕事を軽くしていただく訳にはいきませんか?」

「今のプロジェクト、始まったばかりです。やっと、自分でやりたい仕事が回ってきたんです。どうにか、やっていきたいんです。」

「お体のことを1番に考えましょう。今回、見送ったとしても、次があるはずです。でも、症状が悪くなると、次のお仕事もできなくなりますよ。よく、考えて下さい。あなたは、優秀な方です。絶対に体調さえよくなれば、好きなお仕事ができるようになります。」

美奈は、下を向いた。

もう、待合室に患者の姿はなかった。


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